2007年01月08日
新年のご挨拶と映画のお薦め
今年は新しいプロジェクトのため年末を慌しく過ごし、やっと一息入れているところです。ブロッグでの御挨拶とさせていただきました。遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。
夏の旅の記憶は色褪せることなく、明日にも果てしない大空と大地へ歩き出しましょう。そして、また皆さんと日本のどこかでお会いできるとうれしいです。
お正月はじっくり映画に楽しむ時期ではないかと思います。新人の映画と新作は脇道の面白さを示しているならば、永遠の名作は大通りの意義と懐の深さを堂々と見せられたのではないでしょうか。
去年のお正月に、【アラビアのロレンス】を見て、異国での自分を考え、涙を流した覚えがあります。映画の中にあるのは、生き様の追求と夢の解釈ではないでしょうか。
ここで、中国関連の映画や旅にロマンを馳せるお勧めの映画を書いてみます。
【ヒーロー(英雄)】 中華思想の集大成である戦国時代を時代背景に、中国古代の「任侠」の精神、「天下」という思想、「剣と書法、そして琴」の間の内在的な関係、中国的な「知己」(己を知る友人のこと)の美学など興味深い。
【覇王別姫】 中国近代史を背景として波乱万丈の映画。ストーリや演技においては、中国のゴッドファーザーだと思います。この映画ほど生きた中国語の魅力を遺憾なく発揮した映画はないではないでしょうか。同じ監督の【生きる】もお勧めです。
【遥かなる大地】 アメリカ西部開拓時代、新大陸にわたるアイランドの人たちの物語。古いアメリカの映画だが、最後の馬で土地を争うシーンでは
乗馬キャラバンの最終日、参加者による競馬を思い出すだろう。
【ココシリ】 チベットの密猟者と戦う実話に基づいて製作した映画で、登場人物の生き生きとした無邪気な、しかし真剣な顔は、乗馬キャラバンに同行したモンゴルのスタッフたちの生き方を思い出して、キャラバンの記憶を蘇らせるでしょう。
その他に、【哀愁】、【明日に向かって撃て】、【勝手にしやがれ】、【80日間世界一周(古い方)】・・・お薦めです。
現代人は情報と機械に自然と自由を奪われたとしたら、映画は技術進歩の恵みを証明したそれ以上ない手段ではないでしょうか。
下関 2007年正月
投稿者 wataridori : 01:58 | コメント (0)
2006年01月28日
映画「HERO」
映画「HERO」は私が何度も観ることになった。家族も中国の友人も、日本の友人も、この映画よく分からないという。その都度、無理やりでも付き添って見せた。この映画ほど、中国の歴史の壮大さと奥深さを訴えた映画がないからだ。
「HERO」が描く時代は紀元前220年余。西欧ではローマが地中海周辺全域へ領土を広げ大ローマ帝国の礎を固めつつあった時期だ。そして中国大陸では、始皇帝が、天下統一に向け、覇権を争ってきた他の六カ国を滅そうとした。中国の春秋戦国時代末期である。
「HERO」は始皇帝を名のる秦の国王・政と、彼の命を狙う刺客たちの物語である。監督は鋭い視角で
崇高な忠誠心と崇高な謀反、愛と嫉妬との対立が物語りを織り成し、救国のテーマを浮かび上がらせて、真のヒーローの意味を問う。たとえば、刺客の名を「無名」。
無名であることはとても意味深い気がする。歴史を動かすのは有名な人物による有名な事件なのだろうか。いやむしろ、名もなく記録にも残らない人々の希望や期待こそが歴史を推し進めるものなのではないか。このヒーローは「無名」の大衆の願いを一身に担う存在だからその名も無名なのだ。
ジェット・リーはかつて、チャン・イーモウが構想した映画「ヒーロー」の核心についてこう語った。
「伝統的な武侠アクションの主人公というのは、たとえば修業にうち込んで、それから山をおりて復讐を始めるという直線的な人物です。しかし、この作品「HERO」には敵(かたき)はいません。敵も悪役も描かれないのです。登場人物の一人ひとりが、それぞれの立場から相手を見る、その視角からの世界が描かれてゆくのです。無名という男は、闘うこと、その相手と技を交わすことによって、相手を倒すという次元を超えようとします。力によって相手をただ圧倒しようとするのではなく、闘いを通して関係の奥底、背後にあるべきものをつかもうとするのです。相手の精神世界を理解しようとすることが無名という男の精神です。私はそのことを意識して、無名という人物を演じました。これは東洋世界の広大な歴史から生まれた精神のあり方でしょう。我々が西洋を理解しようとつとめるように、西洋の人々にも、この作品を通して東洋の精神に触れてほしいと願っています」
「HERO」を理解するには、まず中国古代からの行動原理「侠」という概念に触れたい。「HERO」の中では、侠という概念を清らかな人物像と強く美しい映像で遺憾なく解釈した。
たとえば、「長空」の人物像。友情も感傷もすべて内に封じ込め、“義”の前には顔色ひとつ変えずに自らの命をも捧げる孤高な刺客。「無名」の場合、静謐で、覚悟をはらんだ名を持つ剣の達人。胸にあるのはただ一つ、自らに課した使命のみ。「残剣」の場合、書道を通じて剣術をきわめ、名誉や金銭のためでなく、放浪の途で出会った侠女飛雪を捨身的に助ける。とても豪胆で、神秘的である。また、「始皇帝」の場合、私欲のためでなく、天下統一という理想を胸に。悲哀と寛大、それはたとえ己に害を及ぼす人にも。
「侠」という概念。そこで強烈なほど観る人に衝撃を与えたのは、強く美しいアクション、息を呑むほどの衣装、色、風景以外に、東洋ならではのものに着目している。
例えば、剣と書。「HERO」の残剣は、書道の達人にして剣の達人である。書法と剣法の奥義は相通ず――このような概念は、武侠の世界ではまったく違和感がない。日本にも、書画をよくした宮本武蔵のような超一流の剣豪が存在し、武道の奥義は武道に止まらず時代や国にもものを啓発する力を持つ。
また例えば、東洋的な音。棋館の中庭で剣と槍を構えて対峙する最初の決闘画面、長空vs無名。。頭の中では将棋の棋士が手を先読みするように、相手の技を読んで激しい戦いをイメージしているという心理的なバトルを映像化する。くわえて、静を表す琴の音と、京劇の武将の激しさを表す音が織りなす、いかにも東洋的な詩情をたたえた映像に唖然とするしかない。
さらに登場人物の淡々とした言葉の中に、壮大な歴史を思わせる力があった。その一つ、文字について。戦国時代では諸国が違う書体を使っていた。始皇帝は、六国を滅ぼし天下統一した後、このような複雑な異なる文字を廃し文字を一種にした。それも、真のヒーローとは何か、中国とはなにか、その深遠なテーマ性も見所の一つではないだろうか。
投稿者 wataridori : 23:50 | コメント (0)
2006年01月27日
国際映画祭について思う
欧米の人たちはどんな目でアジア映画を見るのかということを、何気なく考えてみた。
張藝謀(チャン・イーモウ)監督は、“成熟した藝術”と“鮮やかな民族文化(ハリウッドと歴然と異なるもの)”が、国際映画祭での成功の要素、と語った。
欧米の映画観客は、異文化に対して理解が少ない中、ローカルの映画人たちが積極的に提供してくれた文化藝術情報を信じるほかない。
“民族文化”を訴える映画は斬新かつ異端的な民俗文化の映像を提供することに熱心でなければいけない。ところが、欧米の映画観客はむしろ、このような人為的に作り出した映像神話を喜んで受け入れようとする。欧米の映画観客にとって、国際映画祭は単純な娯楽だけでなく、ある種の藝術観覧でもあり、また自己優越感の再確認でもある。