2007年11月26日

シルクロードの旅の主旨と視点

砂漠の中に、小さいな泉がある。その泉は何百年も前から枯れることもなく、砂漠の中に存在し続けている。わずかな草さえあれば、羊を追いかけて放牧している遊牧民を目にする。ゴビを越えたところに、オアシスがある。過酷な自然に囲まれながらも、バザールにオアシスの人々とロバ車と馬車が賑わう。人々は盛んに、明るいリズムで踊り、歌う。殺伐とした大地、その寂しさを紛らわすかのように。私は思った。生命の躍動が永遠に存在する、きっと。

この旅で何を伝えたいのか。なぜシルクロードへ日本の大学生を連れて行くのか。彼らはシルクロードで何を得て、何を感じるだろうか。そして、なぜ馬でいくのだろうか。

今の日本の大学生は表面上の国際交流やボランティアに走りがちだ。しかし私はシルクロードで旅している間にこんなことを考えた。古の旅人たちは危険を避けるため、キャラバンを組んで、シルクロードを往来していた。タクラマカン砂漠、戦乱、パミール高原など、人の意志を拒むほど危険極まるこの道を、古の旅人はなぜ、辿ろうとしたのか。彼らは、国際交流やボランティアのことなど少しも考えていなかっただろう。自分の商売、あるいは信念のために冒険したのだ。しかし商品を運ぶために往来していたキャラバン隊は、商品を運ぶと同時に、文化と価値観も東西に伝えた。結果的に国際交流に貢献した。シルクロードも彼らの存在によって文化交流のルーツとなった。表面上の国際交流やボランティアに走る今の若者に、命を賭けるくらいの思いがあって初めて真の国際交流ができ、働くことこそ社会貢献になることをシルクロードの旅で気付いてほしい。そして、若者たちはシルクロードの旅で、“文化交流の形”を探ってほしい。

また、現代の若者は物質に恵まれ、多様な感知間の共存する社会に生まれ育ち、時代に流されがちで、“個”の確立は難しくなってくる。だから、シルクロードで彼らが目にするのは、何千年も変わらない価値観と自然に対する生きる力なのだ。砂漠の光景、明るい音楽と力強いリズム、厳しい自然に生き抜く遊牧民・・・観光ではなく、現地の人と一緒になって踊り歌い、同じ土俵で自然と社会を見つめる。

そして、馬でシルクロードを辿ることは今までにない発見がきっとあるのだ。シルクロードの中でも最古に栄えた道、草原の道は、馬がいたために開かれたと考えられる。馬は人類への意義は測り知れない。馬はまた騎馬民族の誇りであり、彼らの生活そのものである。遊牧民になって、風になって駆けることで、騎馬民族のアイデンティティ、彼らの生活の営みを深く知る。そこから初めて心が通じ、絆が生まれる。

シルクロードとは何か。私たちにとってのシルクロードとは・・・大地を這って、旅を進める中で、中国の雄大さ、尊厳、変動、人の温もり、大陸の風を感じ、受け止める。日本の若者はシルクロードへの思いを募らせ、感情も日々変化していく。

メディアをとおして見たシルクロードは遺跡の紹介や現代の変貌という視点に発つのが一般だったが、シルクロードは現代・過去では捕らえられないものがある。それはスピリッツである。大地は変わりはしない。いつも人間だけが変わっていく。現代の大学生たちがこの道にたどり着いた時、彼らの心の風景は私たちに何を語ってくれるだろうか。

詳しくは http://www.honryu-china.com 

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投稿者 wataridori : 12:10 | コメント (0)

2007年11月14日

なぜ奔流中国を始めたのか

なぜ奔流中国を始めたのか、って聞かれた時によく戸惑う時がある。相手の方からボランティアや国際交流の目的など期待されているようだが、それより遥かに大きいなものが僕を支えているからだ。ボランティアくらいの気持ちなら、これまでのように命賭けくらいの仕事はできなかっただろう。国際交流だって、僕にとってわざわざやるものではない。普通に研究して、普通に友人とプロジェクトとやっていれば、国際交流となるものだ。

もっと大きな何かがあったはずだ。文明に出会った感動や馬の感動でも、最初の頃は言葉にできなかった。ただ満ちていた。それらすべてひっくるめて、僕は情熱という言葉を使いたい。

初めてシルクロードに足を踏み入れた時に、その道に情熱を覚えた。壮大な文明と自然に圧倒された。古代の人々はなぜキャラバンを組んで、命を賭けて旅をするのか。その中で仕事の意義を見出せた。それを今の若い人に伝えたい。それは奔流中国を始めたきっかけになった。

又、初めてシルクロードで馬を駆けた時、言葉で現せない大きな喜びが心の中で沸いた。すべて吹っ飛ばされた感じ、心が完全に自由になれた・・・そう、馬が、シルクロードという道が、僕の一番の原動力だったかもしれない。この道が果てしない。

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投稿者 wataridori : 11:10 | コメント (0)

2006年01月24日

包容力と情熱のある旅、それは奔流

この頃、‘デザインナーズ’という文字をよく見かける。
しかし、ある大手旅行会社が出したトラベルデザインという言葉に頭を抱える。

憧れで旅へゆく。戸惑いで旅へゆく。
本来そのはずだが、

自分のしたいことまで人にデザインしてもらうなら、
そもそも行かない方が、よい。

旅のデザインナーとして、僕は
人の旅をデザインするのではなく、自分の旅をデザインして、情熱的に旅をする。
人は皆違うことが考えるからだ。

人々に共感してもらうには、

感覚を磨かなくては。
情熱的でなくては。
包容力のあるプランを生み出さなくては。

張 宇  

投稿者 wataridori : 16:08 | コメント (0)

2006年01月07日

私の大学生活

自分の世話を自分でし、政府や援助に頼ろうもせず、自立する。学ぶ立場と教える立場両方から日本を見、謙虚さを学び、また日本の良きものを誇りをもって世界に見せたい。学問に打ち込めなかったが、母親の愛を報いるため、人材派遣や投資を始め、世界を視野に入れた。

「自立、プライド、そして愛」

私は来日の次の年、東工大に受かり、工学部の制御システム学科に入りました。その時に知っていたのは、中国からの留学生で一番優秀な人たちが東工大に集まったこと。なぜかというと、日本の受験科目が中国より少なく、また統一試験より各学校独自の試験の方がはるかに難しいです。中国では統一試験のみで、難易度で考えたら、日本の統一試験の倍くらいではないでしょうか。中国の高校の物理と化学は日本よりはるかに難しく、数学は日本より簡単です。(微積分と線形台数がない)、しかし、日本の国立の大学の入試試験に出てきます。また、英語は学校によってレベル高く、全体的に言うと、高卒より、中国の大学で1年、2年中退した学生には一番有利です。私は幸いのことに、高校時代に物理・化学のコンテストでも一等賞をとったり、英語にも嵌った時期があって、中国の大学院入試レベルの試験にも合格していたので、相当自信がありました。それで、東工大に合格できたが、私より上位の人は7名ほどもいます。因みに私の入試成績は東京大学に進学できたら、一番になるはずです。しかし、東大の場合、高卒2年以内でないと、受けられません。私はいろいろ事情があって、本当は2年で高校を終わらせて来日したのですが、卒業証書は高校1年目取ってしまったのです。(だから早くも留学の手続き申請が可能だったわけです)

しかし、東工大のはじめの年は奨学金が得られなく、相当悔しい思いをしました。本来優秀な学生に与えるべき奨学金は、日本政府はだれでも苦しまないように、成績や学校のレベルを考えずに平均的に奨学金を与えています。もしかして、強い人はなんとか生きていけるだろうのような考えは政府にあったかもしれません。その時から皆平等という考えに疑問を抱き始めたのです。その反抗からか、私はその後、誰にも頼ろうともせず、お金は自分で稼ぐものだと心の中に決めました。それは今の自分の生き方にも影響しています。

アルバイトは、 駅のホーム要員として早朝働いたり、指圧の店で働いたり、周7つのバイトも入れて いました。地下鉄サリン事件の時は、永田町で朝の掃除のバイトをしていました。僕は平日の朝9時から、夕方の6時まではほぼ学校にいるため、周りの人からは私がバイトしていないように思われましたが、朝・夜・週末で、当時月20万円以上も稼いでいました。

中でも気に入ったバイトは、東急電鉄の田園調布駅のホーム要員の仕事。鉄道は日本の心臓部のようなものです。自分にとっては、普通の留学生がするようなバイト(簡単なもの、あるいは留学生ならではの翻訳)ではなく、日本の心臓部で日本人と同じ仕事ができたことに意味があったのです。東急電鉄の制服を着て、帽子を被ってホームで込む時にお客を案内したりしていたのですが、私は時にわざと、第二次大戦中のドイツ将軍のように帽子を斜めに被っていました。

自分に大きなプライドと自信を付けてくれたのは、東工大での中国語講座。ある偉い先生が自主開講した講座で、実際教鞭をとったのは私でした。4年間で語学だけでなく、中国事情なども教えて、学部生はもちろん、外部の学生や教職員、博士課程の方など皆参加可能な講座で、時に100人を越える大盛況でした。明学やICUなど1時間半以上も遠くから駆けて来る学生もいて、自分の学校の授業より何倍も面白いと皆話していました。それも当然で、遠くから来ている人がいるために、有意義に時間を過ごしてもらわないと、自分が申し訳ない気持ちになるし、受講生の年齢や目的が様々なのですべての人に楽しんでもらうように工夫しなければならなかったため、大学の先生のようにのんきにはいられなかったのです。僕にとってはそれは仕事やバイトというより、日本を知る貴重な機会でした。それまでは日本を学ぶという視点で日本を見ていたのですが、今度日本に教える、という二つの立場で同時に日本を見ることができました。最近、米国的価値観が日本に浸透してきたが、日本人の中に根付いているのは東洋的な考えであって、米国的な価値観は日本で行き詰るはずだと今でも確信しています。日本人はもっと誇りを持って、日本の良きものを世界に見せなくてはいけないと思います。

最近の留学生は、親の送金で暮らす人もいるでしょうけれど、当時私のような留学生は日本で稼ぎ、生計を立てるのが当然でした。それで日本の学生よりハングリー精神が強かったと思います。未熟ではあるのですが、社会と真剣に向き合います。大学3年の時にたまたま技術者派遣のビジネスを始め、以来、中国へのスタディツアー企画や、日米中への株式投資 コンサルティングなど手がけ始めました。学生では信じられない収入を稼げている一方で、お金を使う暇がなく、生活費は月2万円ほどしかかかりませんでした。奨学金にもちっとも興味がありませんでした(おそらく奨学金の悩みを凌駕できる留学生はそういないと思います)。政府や援助に頼ろうとしない生き方はその時に確立したと振り返って、そう思いました。日本(での生活)は私を育ててくれたと思います。

また、若さゆえのプライドもあって、その時は友人の親の手伝いをして、最後お礼を渡されたときに、私はどうしても受け取らなかったのです。私の中に、一度でも私を助けた人は、私は恩返しのために何でもやってあげたいという信条があったからです。またもうひとつ、お金は人からもらうのではなく、自分で稼ぐものだと自分に厳しく言い聞かさせた時でした。

唯一残念だったのは、学問に打ち込めなかったこと。当時午前中は株式と投資、午後は旅行企画、夕方は人材派遣、研究室に行くのは夜の8時以後です。泊まることも多かったのですが、工学部はそう甘くはないです。文系と違って、研究に集中できなければ所詮成果をあげられないものです。ただ、工学部の研究室では、先生と生徒の厳しくやさしい関係や先輩後輩の面倒見などとっても感心しました。何より、工学部の人たちの謙虚さに学ぶことが多かったのです。

大学時代の生活はいろいろな意味で自分の糧にもなり、自分の生き方の原点は大学にあったといつも思います。

投稿者 wataridori : 19:28 | コメント (0)