2006年11月18日
長らくタクラマカン砂漠・西域南路への憧憬 前書

永久の道、永遠のシルクロード。
知れば知るほど興味深い交易路、帝王将相の夢・・・そして、旅の原点。
広漠な荒地を前に、私は漠然となった;
砂嵐が吹き荒らす時に、私は怖くなった;
荒廃した壮大な遺跡の前に、私はこれまでに何を得た、何を失ったか、のようなこと
を考えることさえできなくなった。
しかし、人々のリズミカルな、快い笑顔を見て、私はふたたび勇気を取り戻した。
人間って臆病なものなんだね。しかし、そんなことを恥じることはない。
苦難な道、それでも一歩一歩あるいてきた人を、たたえよ。
勇気、生まれつきのものじゃない。自分で鍛えるもの。
道、歩くものじゃない、模索するもの。
シルクロードの魂はなにか?人間が歴史を持つ時から、シルクロードは人間を所有し
ていた。 (続き・・・)
この文章を書くきっかけは、2006年の2月に実施する《タクラマカン砂漠縦断・マルコポーロルート》アドベンチャー企画である。多くの人にシルクロードの歴史・民俗を理解していただくため、毎週紹介していきたいと思います。順番は思いつきだが、内容として、《タジク人の婚礼》・《馬背上のカザフ人》・《カザフ人の由来》・《バインブルクのモンゴル人》・《シルクロードの衣装》・《パミール高原》・《楼蘭王国》(その発見と楼蘭美女)・《タクラマカン縦断の道》・《タリム川》・《カシュガルのバザ》・《ウルムチ》・《カシュガル》・《和田(玉)》・《国境》・《火焔山》・《トルファンの高昌古城》・《果物》・《カレーズ》・《タタールの少女》・《狩鷹》・《伊梨》・《ハミと魔鬼城》・《陽関と玉門関》・《シルクロード古道》・《クチャ》・《アイティン湖》・《新疆由来》・《新疆と中国》・《秋風五丈原》・《酒泉》・《西安》・《洛陽》・《徐州》《アルタイ山》などが予定しています。読みやすいように、文字を少なめに、写真などを入れます。どうぞ、お楽しみに。
投稿者 wataridori : 17:22 | コメント (0)
2006年11月15日
ホータンとカシュガルの日曜バザール ~原点の旅~
西域南路で旅した時、一番の驚きはバザールである。映画アラジンや古代の物語に出てくるような人やモノは、そこに、目の前にいること。西域の民にとってバザールは、単なる買い物の場所だけではない。週一度の集会でもある。ローバー車に家族を乗せ、鷹揚とした気分でバザールに向かう。シルクロードの路は、ポプラの並木路。並木の路以外は荒涼たるゴビ(なにもない荒野のこと)。バザールの日になると、路は高鳴るローバー車に満ちている。ハリウッドの壮大なj古代映画に立ち入るほどの臨場感がある。
バザールには、手作りの帽子やナイフなどはもちろん、馬や牛、そしてシルクロード特有の黒い足の羊も売買されている。因みに馬の相場は3000元だそうだ。日本円にすると、5万円前後。もちろん良い馬はもっと高い値段がつく。
現地のウィグルの人は、自分の手作りのものをそこで売り、そのお金で、自分の生活に必要なものを買って帰る。売る人は同時に買う人でもある。ゆえに、物々交換もしばしば行われる。時に、男同士でひそかに腕を握り合い、指で軽くタッチしたりする。それは値段交渉らしい。
そのやり取りは、あまりにも原始的で、時には可笑しく感じる。しかし、よく考えたら、それは商品経済の原点ではないだろうか。今日、私たちデパートで買い物する際に、品物はどこで作られ、どのルーツを沿って自分の手に入ったかのようなことは、ほとんど考えようもしなくなった。その間に商社もあれば、問屋もある、あまりにも複雑になってきて目をそらしはじめたのではないだろうか。
もう一度「原点」を見よう。
追記:
ほんの少し前の東京株式取引所がネット一本化する前、指と腕の合図で売買成立させていた頃の風景を思い出される。その良し悪しは言えないが、少なくとも、本来、ロマンのある人々のロマンを賭ける株式の世界は単なる機械的なビジネス的な乾いたやり取りに変わってしまい、人間はまたもひとつのロマンを失う。
投稿者 wataridori : 14:43 | コメント (0)
2006年11月13日
カザフ民族のあれこれ
天山山脈、あるいはアルタイの森と草原、あるいはジュンガル盆地の荒漠、牧草さえあれば、自由のカザフ族の姿が見える。
一年の間、草を追って、移動する。カザフ族は一生のほとんどを、馬の上で過ごしている。遊牧、大勢の馬、牛、羊、を追い駆けながら、潮のように道路、山谷に満ちる。ラクダの群れはテント、絨毯、そして女、子供を載せて、後ろに揺られる。
カザフ族のもてなし。2歳くらいの馬を殺して、もっとも大切なお客をもてなす。時には羊の丸焼きや羊の煮込み(手抓羊、意味は手で食べる羊の料理)を出される。羊の中にヌードルを入れる時もある。その他、馬のミルクやバター茶など、毎日欠かせない。
カザフ族は昔から寒冷な山地に住み、深夜まで酒を汲みながら唄を興じ、昼頃起き、放牧、とのような生活習慣がある。
カザフの由来。文献の記載を調べたところ、カザフは古代の幾つ遊牧民族の混血だとわかった。6世紀頃アルタイ山脈北に興った突蕨漢国(トルコ系)の時、突蕨人と烏孫人混血、さらに10世紀から13世紀、天山山脈北のウィグル人とキタン人そしてモンゴル初期のナイマン族、チャゴタイ漢国のモンゴル人など混血、今のカザフ民族が形成された。
カザフ民族はシルクロードの北路の伊梨からバリセン草原一帯に分布し、ウィグルに次ぐ人口が多い。
今年のキーワード、“ノマード”。ノマード、フランス語‘遊牧民、自由の民’の意味。去年からエルメスやBALLIなど主唱し、今後のファッション界のテーマにもなるだろう。自由の民への憧れは、ファッション界に留まることは、ない。
投稿者 wataridori : 13:58 | コメント (0)
2006年11月12日
さまよえる湖、そして楼蘭王国
タリム盆地の東には、変化万端の湖があり、ロプノール湖である。かの有名な楼蘭王国は湖の西北方位にあった。そこには人口が多く、貿易が盛んで、古代シルクロードの重要な存在だった。紀元4世紀、楼蘭王国は忽然と消え、7世紀に三蔵法師がそこを通過する時に、すでに黄沙に覆われた楼蘭の故地で、廃墟にすぎなかった。
YARDAN地形、楼蘭一帯の景観。YARDANは、ウィグル語では、険悪な砂丘という意味。この地形は河川の流れに浸食されて形成されたものと思われ、YARDANは、大昔、ここは草豊かなオアシスだと物語っている。
楼蘭はなぜ消えたのか、今でも謎である。推測では河川の流れが変わり水不足に陥ったことと、古代シルクロードは4世紀ころから、南のルートが次第に北のルートに取替えられたことが考えられる。20世紀始めのころ、ウィグルの人が無くした農業道具を探して、道に迷い偶然に古城遺跡を発見した。楼蘭古城は長さ330メートルほどの正方形に近い。
ウルムチにある新疆博物館の中に、楼蘭古城から発見した古代女性のミラがある。顔が小さく、目が大きく、眉毛が細長く、その数まではっきり数えられる。足には牛革で作られた靴を履き、静かに眠っているように見える。彼女の長い金髪を見て、華やかな少女であったに違いない。現代技術で検査したところ、彼女は地下で3800年もの間、眠っていたことがわかった。
余談となるが、私以前、友達に家族の想い、家の大切さを話したことがある。ある日その友達が、私に“その話を思い出す”と話してくれた時に、私は“さまよえる湖”で答えた経緯があった。時に現れ、また忽然と消える街は、人間の野望、欲望のように、ある時は気勢盛んになり、ある時、萎える。しかしロプノール、湖は彷徨えながらも、いつまでもそこにある。
私はその時、深いことをなにも考えずに、ただただ無意識に答えただけ・・
投稿者 wataridori : 14:07 | コメント (0)
2006年11月11日
パミール高原とタジク族の婚礼
カシュガルの西、中国、ギルギス、カザフスタン、インド、パキスタンの国境に、世界の屋根、パミール高原が広がっている。平均標高3000メートル以上、氷山が点在し、氷山の父と呼ばれる《ムシタコル》(海抜7546m)はそこにそびえている。
寒冷のパミール高原を家にするのは、タジク族。石の積み上げた家を住居にし、遊牧、農耕両方営む独特な民族。鷹の翼の骨から作った笛を愛し、鷹の踊りを興じる。
タジク人の結婚式は、新郎側は騎馬隊で新婦を迎えることから始まる。新婦を同じ馬に乗せて帰る。人々は祝福の意味を込めて、新郎新婦に小麦粉をかける。そして踊りを興じ、鷹の笛で伴奏する。時には、村の男たちは、ヤクに乗り、羊を奪い合うゲームをして結婚式を楽しむ。
タジク人は、日常生活では伝統的な中国の人民服に近いものを身につけている(写真)。しかし色は一般の中国のものより鮮やかで、高山民族の固有な色の感覚がうかがえる。偶然かもしれないが、去年からはPRADAなどファッションの女王達はタジク人の日常服に非常に近いファッションを作り、今年に入り、ほとんどすべてのBRANDがそれを真似て、東京の街にもその姿が多くなってきている。しかし、そのスタイルは辛抱強く、鉄のような意志の象徴であることは忘れないでほしい。
投稿者 wataridori : 14:09 | コメント (0)
2006年11月10日
シルクロード古道
西安を起点とし、祁連山脈の南(古来、河西走廊と呼ばれる地域)を沿って、西に進み、敦煌につく。これまで一本の道は敦煌で分かれる。西域南路では、西南方向に陽関を出て、ロプノール湖一帯500キロほど横断し、楼蘭国に辿り着く。ここまでは流動砂漠地帯であり、シルクロードのもっとも険悪なルートでもある。その西には、チャルクリク、チャルチャン(古代では且末国)、ニヤ(古代では精絶国)があり、漢代では、それらは万人未満の西域の小さい国だった。チャルクリクとチャルチャンの間では、南に隣接している崑崙山脈から流れてくる数多くの河に恵まれ、オアシスが続いている。さらに西に砂漠ゴビ地帯(私的に荒漠地帯と呼ぶ)を経て、于田、ホータン(古代では和田と呼ぶ)、ヤルカンド(古代では沙車国と呼ぶ)につく。ここで道はさらに二つに分かれる。ヤルカンドより北上し、カシュガル(古代では疏勤国)に出て、パミール高原を越え、“大月氏”(現在インド・パキスタン一帯)と通り抜け、安息(ペルシャ)に着く。ヤルカンドより西に向かい、“大月氏”、“ 安息”に入る道もあり、どの道もローマまでに通じる。そのルートは最も早くから国際交易路として使われ、2000年以上も前に金髪緑目の西方商人のキャラバン、それからその後の三蔵法師、マルコポーロもこの道に足跡お残している。しかしこのルートは険悪のため、中世以降は次第に衰え、北のルートが使われるようになる。
西域北路では、敦煌より玉門関を出て、ハミへ。そこから北上し天山山脈を越え、バリセン草原(現在カザフ自治区)へ。そこから西へ道を進め、伊梨地方(現在伊寧市)で出る。さらに西に、イシル・シル湖を経て、サマルカンド(現在ウズベキスタン、後程「サマルカンド」の章を付け加える)へ往き、ルーマニア、ハンガリ、ローマに通じる。この道は、大草原が広がり、モンゴル草原にも通じ、古代では遊牧民が争う場所であり、古戦場の征鼓が今もなお聞こえてくる。北路では、古代の烽火台は道路の走行を示す。このルートは漢代に現れ、唐代から繁栄した。
西域中路では、ハミから善繕へ、トルファン盆地の高倉古城(古代高倉国)、交河古城に入る。そして天山山脈南麗、タリム河を沿って西に向かい、コルラ(古代亀滋国)、輪台、クチャ(古代庫車国)、アクス(阿克蘇)疏勤など歴史上の名城を経て、カシュガルに達す。このルートは仏教伝来の道であり、現在鉄道が作られ、もっとも栄えている道でもある。クチャとカシュガルのバザ-ルの賑わいから当時の繁盛を伺える。
投稿者 wataridori : 14:11 | コメント (0)
2006年09月30日
カザフ人の祭り
カザフのまつり
《奪羊祭》
祝日あるいは結婚式の時、カザフ族は伝統的な馬上の試合を行う。日本語にないため、私は《奪羊祭》と名前をつける。力と知恵、そして馬上の技量を競う試合である。
試合開始時、頭を切り落とされた羊が投げられる。騎手達は二つのチームに分かれ、投げられた羊を拾うために突進する。羊を地面から拾った人は、目的地に向かってひた走る。相手チームの人は懸命に追っかけ、奪い取ろうとする。見方のチームは懸命に守る。そうなると、羊は時にバスケットボールのように空中に投げられ、時に分解されそうに奪い取られ、どちらも譲らない。馬は、狂うように走り、駆ける。最終的に、指定した場所に、羊を届けたチームの勝利となる。
《少女追》
一般的に夏に行われ、情意に満ちている行事だ。一つのチームから年齢18歳くらいの女の子が選ばれ、もう一つのチームは男の人が参加する。それぞれ馬に乗って、遠い彼方に歩いていく。その間に、男の人の方は女の子に対して、どんなに挑発的な、ふざけた話をしても、たとえ愛しい気持ちを伝えても、女の子は怒ってはいけない。顔が真っ赤になっても、黙って聞くのがルール。しかし、終点について折り帰す時は、状況は一変する。女の子は“復讐”し始め、鞭で追っかける。男の人は鞭の仕打ちから逃げるため、ひたすら出発地に向かって走る。その時、女の子が照れたように軽く鞭を男の人に当てたり、わざと当てずに空振りしたりしていたら、女の子は男の人を気に入っているということなのだ、きっと。
奔流中国のトップページから「映像」というボタンをクリックすると、その映像を見ることができます。
私は初めて《奪羊祭》に参加したのは、蒼々シルクロードの引率でセリム湖へ行った時だった。試合の前、まず儀式が始まる。カザフの伝統的な楽器の演奏が始まる。悲しそうなメロディーの中に鷹揚とした力が隠されているようだ。その間に、羊が殺される。おそらく羊は草原の民にとって大切なものなので、そのための儀式だと思う。試合は一時間ほど続いた。羊が渡された時、思った以上重かった。途中何回か、片手でどうしても持てなくなってさっさと人に渡してしまう。私と同じチームの18歳の少年は何事もないように羊を持ちながら走っている。その姿には頭を下げざるを得なかった。
一番の不思議は、私たちセリム湖に行ったのは特に祭りの日ではなかった。私はスタッフの馬飼いのお兄さんたちに、“そのゲームをやってみたいね”と雑談していたら、やりましょうって返事が返ってきた。しかし、馬飼いは5人しかいない。私を入れても6人。周りを見渡して地平線まで一面の荒野で、人の影も見えない。しかし、その30分後に、何十人ものカザフ人が知らず間に集まってきた。一体あなた達どこからやって来ただろう。
残念のことに、《少女追》に参加したことは、まだ一度もない。